門司港が特別輸出港に指定されたのが、1889年(明治22年)。そして、旧門司市が1899年(明治32年)に市制を施行しました。旧門司市役所が、西本町から広石に新築移転(現在の門司区役所と同じ場所にあった)した1908年(明治41年)に、山口酒店は創業を始めました。初代店主は山口龍太郎。店の前で撮
った当時の記念写真の下には、門司市須崎町一丁目と印されています。
二代目の山口旗朗は、五人兄妹(四男・一女)の四男として1928年(昭和3年)1月1日に生まれました。ちなみに、旗朗(はたろう)という名前は、誕生日が旗日だったからだそうです。父が生まれた2年後の1930年(昭和5年)門司市庁舎(現在も門司区役所として活躍中)が落成されました。父は、庄司小学校(現在は門司港アート村として活用)から旧制門司中学校(現在の門司高校)に進み、そして父が19歳の時に祖父が亡くなり、家業である酒屋を継ぐことになります。
父が、酒屋を継いだ昭和20年代から40年代までは、門司港も一番賑わっていた時期で、ハイカラな店が並ぶ栄町銀天街は、モダンな港町・門司港のひとつの顔でした。当時、門司港には日本銀行をはじめ大手都市銀行、商社、海運会社といったそうそうたる企業の支店が立ち並んでいました。料亭も多く、一時は200人を越えるほどの芸者さんもいたとか。町中には、夜遅くまで人が繰り出していたといいます。栄町銀天街は、そんな門司港になくてはならない存在だったのです。
山口酒店は、これまで業務店様を主体とした営業活動でした。父は仕事面でも持ち前の几帳面さと、的確な判断力、素早く丁寧な対応で、お得意様からの信頼も厚く「大将!」「大将!」と気楽にお声をかけていただき、いろいろなご相談や励ましのお言葉なども頂戴していたようで、頼りになる存在だったようです。
現在の山口酒店の基礎を作ってくれた父も2002年(平成14年)10月、74歳で亡くなりました。サッポロビールの黒ラベルが大好きで、毎日のように飲んでいました。また、気のおけない同級生や所属していた門司ライオンズ倶楽部の友だちとともに、よくゴルフも楽しんでいました。それにハンチング帽や時計も好きで、よく家族に内緒で購入していたようです。さすが、ハイカラな街「門司港育ち」だけあって、なかなかダンディーでセンスの良い自慢の父でした。
そんな父の遺志を継いで、残った家族、従業員全員で力を合わせて頑張っています。2006年(平成18年)「栄町カフェ」を併設して、新しく生まれ変わった山口酒店。これからも、お客様に親しまれ、愛される店として、栄町銀天街を拠点に「店づくり」「まちづくり」に取り組んで参ります。どうぞ、今後とも御指導、御鞭撻をよろしくお願い致します。 |